コロナ禍のなか、みなさん大変な思いで日々を送っておられるのではないかと思います。
心より、お見舞い申し上げます。
どうしたらこの事態をしのげるのか、前向きにとらえて乗り越える方策を見出せるのか、
考えなければならないところです。
私は、やっと、ようやく、これから考え始めるところです。
私事になりますが。
こんなさなかに、母が亡くなりました。
4月14日でした。
私の主催公演で、木戸番を長らくしておりましたので、お客様で顔を知っていただいている方も多く、「わたしは奈々福さんのお母さんのファンだ!」とおっしゃる方もいらしたので、お知らせさせていただきます。
昨年正月早々に病気がわかりました。
家族で一番健康的な生活をしていた人ですので、本当に驚きました。
その月末に手術をし、経過はよく、春には一緒に染井の桜を楽しみ、だいぶよくなった初夏には、フランス料理を食べに行き、家事もこなし、おだやかに療養しておりましたが、十月に病気の再発がわかりました。
再発の知らせを、ブダペストで聞きました。
呆然、でした。異国にいて、そばにいてやることもできなかった。
帰国後に、
「もう、遠くには行かないで」
と言われたことばが、ぐさっと胸に刺さった。
どんなに不安だっただろう。
それでも希望を捨てず、昨年は病中で行くことができなかった、奈々福の銀座観世能楽堂公演に、今年こそ行くことを目標に療養を続けておりました。
基本、薬の投与のための一日二日の入院以外は、自宅療養。
お正月が無事迎えられたことを喜び、うちで過ごせることを喜んでおりましたが、少しずつ体力がなくなり、少しずつできないことが増えていきました。
お気に入りのソファに横になりながら、私が家事労働するのを眺めつつ、そこはそうだ、あそこはどうのと言っておりましたが、三月中旬に、呼吸が苦しい、病院に行くと言い出し、慌てて母を病院に連れて行きました。
コロナ禍のこの時期、院内感染を避けるために、病院は面会全面禁止。
治らぬ病で入院するということはつまり、息あるうちには会えないかもしれない、ということを意味します。
私は病院のロビーで、車椅子の母にすがって、人目もはばからず号泣していたらしいです。あとから駆けつけた妹がどん引きするくらい泣いていたらしいです。
あまりに泣くので、主治医の先生が。
「あの、一日十分なら、面会許します」
浪曲師の感情表出は、相当インパクトがあったのだろう。
この時期、面会を許すとは、医療従事者の方々に大きなストレスをかけてしまうことです。それを、主治医の先生は許してくださいました。
信頼する先生と、よくお世話くださる看護師、リハビリ療養士の方々が母を支えてくださいました。私も毎日のように通いました。
このコロナ禍を、前向きにとらえるならば。私に、時間があったことです。
母のそばにいられました。
いや、入院してからは辛かった。一日十分なんて、辛かった。
本当はずっとずっと付き添ってあげたかった。
まだまだできたはずのことはあった。
母に寂しい思いをさせた瞬間もあった。もっと楽にさせてやることもできたはず。
「もう、よくならない。悲しい……」
と涙をこぼされたときには、もう、どうしてあげてよいのかわからなかった。
悔いはいくつもいくつも残ります。
まだ76歳でした。こんなに早く……母も悲しかっただろうと思います。
家族のために、本当によく働いてくれる母でした。
よくこれだけ家事仕事をするものなあと、我が母ながら感動することもありました。
「丁寧に暮らしているもの!」
と言った言葉を覚えています。
「家族の潤滑油になる人がいてもいいんじゃない?」
箪笥の中には、母が縫った浴衣、つくったレース編みのテーブル掛けの数々、刺繍のバッグ、コート……どうしたらいいんだというくらい手作りのものが出てきます。
戸棚の中には何十年も記録し続けた家計簿やお付き合いの記録。
子どもたちのご飯は基本、すべて母の手料理でした。味噌は自家製。
うちは両親とも、家庭環境に恵まれずに育ち、たぶん家族に対する強い思いが両親ともにあったのだと思います。
私の幼い頃、親族のことで喧嘩した両親。父が母に手を上げたことがありました。そのとき切った母の啖呵。
「暴力で人の心が変えられると思うなら変えてごらんなさいっ!」
強烈に覚えているなあ。
私が浪曲になることには大反対でした。家の中で三味線弾くことをものすごく嫌いました。
母の母、私の祖母の一番上の兄が、浪曲で身を持ち崩した人だったせいもあると思います。
でも、私が新聞や雑誌に載ったりすると、世間に認められているらしいと認識したらしく、少しずつゆるんできました。
木戸を手伝うと言い出し、洗濯しながら、「〽利根の川風〜」と鼻歌でうたうようになり。
「ねえ、今日はなにやるの?」
と聞かれたときにはびっくりした。
「『仙台の鬼夫婦』か『茶碗屋敷』」
「ああ、あれ、面白いもんね」
母の気に入りは、「仙台の鬼夫婦」「茶碗屋敷」「陸奥間違い」「金魚夢幻」。
「お姉ちゃんの浪曲はおもしろいわよ」
私が二足の草鞋でいっぱいいっぱいになっていたとき、わざわざ私の横に来て。
「お願いです。会社を辞めてください」
浪曲大反対だった母が、そういいました。
小さな葬儀を済ませ、少し、落ち着いたところです。
この一年四か月、ずっと持続的緊張状況にありましたので、まだ心が固まっちゃってる自覚がある。母がいなくなってから、十分には泣けてない気がします。
がらんとした家で、やっと自分と自分のまわりのことを考え始めています。
いまだ新型ウィルスの流行は終息しそうにありません。
母がいるうちは、母の看護以外の時間を、家事と単行本の執筆と、稽古だけに使っておりました。頭がそれ以上はまわらなかった。
まだ単行本は書き終わっておりませんが、そろそろ、今後のことを考えはじめています。
アフター・コロナの世界は、それ以前とは変わってしまうかもしれません。
それを想像し、それでも人と人とのつながりを大切にしつつ、生き抜いていく形を探らなければ。
心配なのは、危機的状況による、人心の荒廃。
そのためにも、社会のセーフティネットとして、芸能はあらねばならぬはずです。
豊子師匠もみね子師匠も、元気にしておられます。
外出自粛以降も、他の人には会うのを慎み、豊子師匠のおうちにだけは通っています。
私は稽古がしたいし、豊子師匠は人としゃべらないと精神の均衡が保てないので。
奈みほもまみも元気です。
彼らも他の人と会うのを慎み、豊子邸に稽古に通っています。
平常時よりよほど稽古している(笑)。
みね子師匠もたびたび豊子師匠の様子を見に来てくださいます。
なんて恵まれてるんだ、豊子師匠(笑)。
そして、実演の舞台がなくて淋しいんだろうなあ、師匠方から電話がかかってきます。
昨日は秀敏師匠から電話がかかってきた。
「奈々福さん、アンタ元気?」
はい、元気ですと答える前に、電話口で、この次の舞台のときはこのネタやろうと思うのよって、電話口でうなり始めたのには参った(笑)。
さあ、いろいろ考えよう。
私を応援してくださっているお客様にとって。
私にとって。豊子師匠や弟子たちにとって。
そして、浪曲にとって。
よりより形を、これから考えます。
浪曲の灯が消えてしまわないよう。
相当の危機感があります。この危機感を、浪曲界の誰と共有できるだろう。
考えます。